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2013.01.26 プレゼント
今日は嬉しい誕生日プレゼントが届きました。

ファンの皆さん85名が合作してくれた大きなパネルです。
これは絶妙なダフコスをするcodaさんという方がツイッターで呼び掛け集まってくれたそうです。

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とにかく凝ってます。このカーテンを開けると・・・

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おおおおお!
85名の合作パネルが!!


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イラストやコスプレやメッセージカードなどなど
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みんなの気持ちがこもってます!
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嬉しいですねえ。
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みんな時間をかけて作ってくれたのが伝わります
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素晴らしいプレゼント本当に嬉しいです!


このパネルには誕生日プレゼントという側面と、 2年間続いたライチイヤーとのお別れの思いが込められていると思います。

こうしてひとりひとりのメッセージを読んでいるとライチという作品が多くの人の心に届いているのだと実感できます。

ライチイヤーですが、今春にはDVDの発売もありますし、
まだまだプロジェクトとしてのライチは続くと思いますので
今後もよろしくお願いいたします!

このパネルずっと大切にします。皆さん、codaさん、本当にありがとうございました!
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2013.01.25 誕生日
1月25日、今日は誕生日です。
ツイッターを開いてみたらたくさんの誕生日おめでとうコメントが届いていました。とてもありがたく、感動しました。

若い頃 は一歳の違いなどなんとも感じなかったのですが、最近は一年一年の重みを感じています。
息子がどんどん成長してるせいかもしれません。

誕生日になると、今年の抱負などを考えてみるのですが、毎年同じ結論に至ります。それは「今現在、書いている作品を良いものに仕上げる」ということです。

そして常に新しいことにチャレンジし、いつまでも新人の気持ちで、高みにいる先輩漫画家たちを追い越すつもりで頑張ろうと思います。

僕は現状の自分が置かれているこの立ち位置に満足していません。
いつも次のステップに行きたいともがいています。しかし自分が望んでいるような結果はなかなかついてきません。


誰の言葉かは忘れましたが
印象に残っている言葉があります。
「人間は常に不満足な生き物である。不満足な人間であるよりも満足な豚のほうが幸せだ」

この言葉を時々思い出しては、現状の自分もそう悪いものではないと思おうとするのですが、これは自分の性分であると思うし、また頑張れる原動力になっているのかもしれません。

今この日記を書きながら、次に描きたいものが浮かんできました。まあ日々こうして浮かんでは没にするの繰り返しなので、これが形になるかどうかわかりませんが、ちょっと頑張ってみようと思います。

と言うわけで今年も皆さんお付き合い下さい。
2013.01.22 久々の作画
10日からずっと夜も眠れない位の咳が続いております。

そんな中、久々にスタッフが3人入って「帝一の國」の作画作業をしました。

本格的な作画は1カ月ぶりです。いつもの日常が戻って来たと思うと同時に、気の合うスタッフ達と一緒にする仕事はやはり楽しいなと思いました。

うちの仕事場は基本的にいろいろ話しながら作業します。

長時間の作業なのでずっと気を張っていると疲れてしまいます。なのでほどよく気を緩めながら、でも手だけは動かしているという状態で仕事してもらっています。

僕もだんだんと歳をとってきたので、長時間作画の後はとても疲れます。歯を磨きに行くことすらできないくらいに。でもこの疲れが心地よくもあります。

この長時間作画は水曜日まで続きます。
2013.01.17 休養中
母の葬儀の日、急な高熱を出しそのまま寝込んでいましたが、次の日にはテレビを見れる程度には回復したので、横になりながら年末からハードディスクが撮りためてくれていたテレビ番組をひたすら見ています。

初めて「コクリコ坂から」を観たのですか、とてもよくできていて感動しました。
昭和40年代初頭の学生たちの熱い雰囲気や、昭和の少女たちの凛とした佇まい、
そして少年と少女の運命的な結びつきなど、どのピースもかっちりはまっていてそれでいて説明過多ではない演出に宮崎吾郎氏にはやはり宮崎駿氏譲りの才能があるということがよくわかりました。

ジブリ美術館の基本設計にも携わった宮崎吾郎氏、その才能はこの映画でもいかんなく発揮されていました。

最近、ハリウッドの大作物の映画に少し食傷ぎみで、やはりこのような日常を基盤にしたドラマと言うのに惹かれます。

基本構造がオーソドックスな物語が昔から好きなようです。
2013.01.15 15日葬儀
今日は午前9時から母の葬儀がありました。通夜とは違い葬儀となるといよいよこれでお別れだという気持ちも高まり、読経が進むにつれ寂しくなっていきます。
母の棺の中にはご近所の方から頂いた闘病を応援する絵はがきや、ポストカード、僕の漫画、愛用していた服やカバンなどが入れられています。
焼香も終わり、参列者で母の棺内にたくさんの花を入れていきました。

花が何よりも好きな母は大喜びしているように見えました。必死に涙をこらえていましたが、ここで涙腺も崩壊し、思い出と一緒に涙が込み上げてきます。棺に蓋をする瞬間、これで直に母に触れることができないのだと思うと何だか訳が分からなくなってきました。

喪主の挨拶を終え、参列者の皆さんと一緒に火葬場に行きました。ここは母の父方の墓がある多磨霊園脇の火葬場で母も生前この場所での火葬を望んでいました。


待っている間、この瞬間にもどんどん母は燃えている、そんな姿を想像したらまた訳が分からなくなりました。

その後骨なった母はとても小さい姿でした。
しっかりとした骨ですよと焼き場の方は言ってくれましたが、とても細く小さなものでした。

それを骨壷に入れ、位牌と共に斎場に戻ってきました。
後は食事をとればすべての葬儀は終了です。

この段階になって急に体が重くなりました。歩くのも辛い状態です。
空腹のせいだと思い食事をすべて平らげ親戚のおじさんとお話していると意識が朦朧としてきます。

みなさんに挨拶をして笑顔で送り出すことができました。家からすぐの斎場でしたので5分後には家に到着し念のため熱を測ってみると36度5分と平熱でした。

しかし関節の痛みと寒さに震え毛布にくるまり1時間睡眠とった後熱を計ると38度5分ありました。今は熱い風呂につかりながらこれを書いてます。

12月31日から10日まで母の病院に泊まり込み、その後今日までの5日間、気力だけで立っていたのだと初めて気がつきました。

母は自分の亡くなる日を1月10日と定めそれに向けて頑張り、実現しました。

僕も母のようになりたいと願ったおかげかもしれません。

まだ納骨や遺品整理などといったやるべき事は沢山残ってますが、なにはともあれ母を無事旅立たせるという人生の大仕事終えることができました。

しばらくは熱を出し切って完全休養したいと思います。

お母さん、ありがとう。
2013.01.14 通夜

今日、東京は初雪にして大雪でした。電車が止まり遠方からの親戚が来ることができない中、母の通夜が行われました。母はたくさんの花に囲まれとても幸せそうに見えました。今ここに母がいてお焼香あげている方全員に声をかけ感謝を述べているような気がしました。

雪光優美大姉

雪の日に光に包まれ旅立つ母にふさわしい戒名をいただきました。
2013.01.13 13日
年末のヴァニラ画廊での展覧会で原稿を購入して下さった方々、本当にありがとうございます。

今日は1枚1枚にサインを入れました。感謝の気持ちを込め、時間かけてゆっくりとサインさせていたきました。

いつもは自分の原画は結構雑に扱うのですが、もうすでに代金をいただき、売却済みとなるとこれはもう人様の物、そう思うと汚したらいけないと思い自分の絵なのに緊張するという今までにない経験をしました。

今日も安置所に母に会いにっ行ってきました。
今日は息子と一緒だったので、母も喜んでいるように見えました。
まだ2歳8ヶ月の息子は母の死がよくわかっていません。 ばあば、寝んねしている、と言っていました。

父が亡くなり、母も亡くなった今、2人の面影は息子の中にあります。

息子は父に似たじっくりと物を考えるところがあります。
そして母に似て人見知りをせず、陽気で明るいところもあります。
息子の中に2人は生きています。

父と母は僕にとても沢山の財産を残してくれました。僕もその財産余すところなく息子に残していってやりたいと思っています。

雪が降るかもしれないといわれている明日は母の通夜です。
2013.01.12 12日
今日は締め切り間際の帝一の國5巻の表紙の絵を描いていました。
その間も体調と気分がすぐれずどうも鬱々としていましたが良い絵は描けました。

家から母が眠っている安置所までは徒歩5分位の場所なのですぐ近くにいるという安心感があります。

実家がある八王子の昔から仲良くしてくれていた近所のおばさん方5名から母にお花代が届きました。
僕も小さい頃からとてもお世話になっているおばさん達です。お礼の電話を差し上げた時に話の流れで最後に母にお別れが言いたいと言っていただきました。母は近親者のみでの葬儀をと言い残していましたがとても仲の良い方たちだったのでお通夜の参列を提案するとぜひともということでした。そして日時と場所をファックスしました。

しかしその後何か胸がざわざわします。
母が怒っているような気がしたのです。

もう一度母の気持ちになって考えてみました。
その方達をお誘いするという事は他にもお世話になった方はたくさんいるわけで、その方たちにもお誘いしないと申し訳ないのではないか、そうすると式の規模は倍以上に膨れ上がり手間も金額も大きく変わってきてしまいます。
なるべく質素に内々だけという母の希望を改めて考えてみました。生前母は何度も言っていました。葬儀は本当に大変なのだと。それは母が父の葬儀を行った時、沢山の方をお呼びしてとても大変そうだったし、そういう苦労を僕にさせたくないという思いからだと気がつきました。


そしておばさんに今考えたことをもう一度伝えると「そうね、お母さんとても気を使う人だったから、そう考えてるのかもしないわね。では納骨の際はぜひ参列させてください」と言ってくださいました。

おばさんにお断りの電話をした後は胸のざわつきが収まり、母も一安心してるのを感じました。

近親者のみでの葬儀という母の希望は遠慮深い母の性格からくるものだと思っていたのですが、それは残された僕たち家族に対する最大の配慮なのだと感じました。

少しずつ母の思いの深さが身に染みてきます。
こんなことも後にならないとわからない愚かな息子でごめんなさい。
2013.01.11 11日
かなり放置気味だったこのブログが母の死に関して日々細かく綴っているのには理由があります。
4年前父が亡くなりその時もいろんなことがありました。しかし悲しいかな、人間の記憶はどんどん薄れていきます。あんなにいろいろあって悲しかったにもかかわらず細かく覚えていません。

あとから読んでその時のことを思い出したいという理由でこれを綴っています。

そして同じように肉親の死と対面した人との思いを共有したいと思っています。

コメントの中には肉親を失ったつらい体験を書いてくださる方も多く自分だけではないと言う気持ちになります。また両親が元気な方もそれが当たり前のことではないということを知ってもらいたいなと思っています。


母が亡くなって一日 たちました。

今日も葬儀社の人と細かい打ち合わせをしました。近親者のみでの小規模な葬儀とはいえ、決める事は多く通夜の料理はどれにするか、何人前にするか、葬儀が終わった後の料理はどれがいいか、香典返しはどうしようか、火葬場のランクはどれがいいか、等々 。母の希望でなるべく質素に取り行いたいのですがそれでもやはり全て合わせると
100〜200万はかかります。
テレビでよく見る芸能人の豪華な葬儀はどのくらいかかるのだろうとふと思ったりします。

その後安置所に行き線香をあげてきました。
相変わらず母は眠っているようにしか見えませんでした。
家に帰ってから年末の展覧会で頂いた手紙をひとつひとつゆっくりと読みました。みんな時間をかけ書いてくれたのだと思うととてもありがたく思います。

その後歯医者に行ったり溜まっている雑事をこなしていたのですがどうも体に力が入りません。咳も出てきて体調が下降しているのが分かります。
夕方から家族で温泉施設に行ってゆっくりと風呂につかり家に帰ったらそのまま気を失うように眠ってしまいもうすぐ日にちが変わろうとしている今目覚めました。

母が亡くなったのが一日前だというのが信じられません。
もっとずっと前に亡くなったような気がしています。

最近一日がとても長いのです。母は余命宣告された9月上旬から亡くなるまでの4カ月間は1年ぐらいに感じています。

疲れたので寝ます。
2013.01.11 安置
今朝、呼吸が止まりそうな母の手を握っていると僕の妻が病室に入ってきました。そして「来ましたよ」と話しかけると母は何かを返事しようと大きく息をし、そしてそのまま呼吸が止まりました。

母が「私の天使」と崇める妻が来るのを待っていたかのような最後でした。

その直後、朝一番でもうすぐ亡くなるかもしれないと言う知らせを受けた親族の方たちが集まってくれました。
残念ながらほんの少しの差で間に合うことができませんでした。

その後母の痩せこけた頬に看護師さんが綿が詰てくれ、体をきれいに清めてくださいました。そして妻が化粧を施しお気に入りの洋服にズボン、ジャケット、帽子、マフラーを身につけたその姿はまるでお出かけ前に少し眠っているかのようでした。

その後葬儀社の方が母を迎えに来てくれました。霊柩車に運び込まれる母を今回お世話になった東京衛生病院の先生方、看護師さん達、皆さんで見送ってくださいました。

皆さんには本当に良くして頂き感謝してもしきれません。看護師さんたちは本当に優しく母に接してくださいました。そして僕たち家族の心のケアまでしてくださいました。
多くのボランティアの方たちは母の体をマッサージしてくれ、毎日手作りのクッキーとお茶を出してくださいました。母はこの時間を毎日とても楽しみにしていました。
そして先生方は母の痛みと心の不安を取り除いてくださいました。おかげでとても安らかな最期を迎えられました。本当にありがとうございました。

その後葬儀場に隣接する遺体安置所に母を運び葬儀の打ち合わせなどをしました。

葬儀はなるべく質素に執り行いたいと言う母の希望で親族二十数名での葬儀となります。

僕も10日ぶりに家に帰り、葬儀に使う母の写真などを選んでいると思い出が雪崩のように押し寄せてきます。

じっとしているのが辛くなり母の遺体が安置された安置所まで走っていき、そこの壁に触れながらしばらく母に話しかけてみました。


まだ今は母を送り出すと言う大仕事が残っているので気持ちを保つことができています。
2013.01.10 ご報告
1月10日午前10時25分
最愛の母が亡くなりました。



励まして下さった皆さん、本当にありがとうございました。
2013.01.10
10日の朝なりました。まだ母は呼吸しています。ですがあと数時間だろうということです。母の脈はほとんどふれていません。

まだ温かい母の手。
2013.01.09 兆候
もうすぐ母が死を希望していた10日になろうとしています。

看護師さんの言うには左手はもう脈がないそうです。
右手はまだ脈があるのですがとても弱いとのことです。

痰が絡んだようないびきをたてています。これも死の前の兆候だと言います。

今夜、亡くなる可能性が高いと言われました。

急に実感として母の死を感じて来ました。

体が震えています。
2013.01.09
1ヶ月ほど前面会に来た時に母はしきりに「徳」について話していました。

「あなたは徳を心に刻みこれから生きていきなさい。徳と言う言葉について調べ、それを実践していきなさい」

この時は、うん、わかったと言いつつ聞き流していたのですが今ふと思い出し改めて徳についてWikipediaで調べてみると以下のように出ていました。



徳(とく)は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。(中略)
徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。徳は人間性を構成する多様な精神要素から成り立っており、気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気、名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などが個々の徳目と位置付けることができる。


これらすべてを実践できるほど僕もまだまだ人間ができていませんが、母の最後の教えであるこの徳と言う言葉を心に刻もうと思います。
2013.01.09 9日
1月9日水曜日。
一昨日、医師に言われた今日か明日という命の期限を母は超えました。きっと心の中で「先生、私頑張ってるでしょ」と笑っていることでしょう。

母はまだ比較的元気だった頃僕の妻にこう話していたそうです。
「私は亡くなるんだったら、 1月10日位がいいわ。12月下旬は息子の舞台や展覧会があるし、正月早々だと親戚の人に悪いし。だから年が明けて10日位がちょうどいいわね」

今はもう昏睡状態となった母ですが1月5日ぐらいまでは日にちをしきりに気にしていました。

どこまで周りの人のことを気にかけているんだろう。
自分の体が癌に蝕まれて苦しい中、死ぬ時期までも人の都合を考えるなんて。絶対僕には真似が 出来ないと思います。


その10日がもうすぐやってきます。
2013.01.08 8日
1月8日火曜日
母の体温は38度前後、
今は寝息を立て眠っています。医師によるとこれは中枢性の発熱と言って脳の中枢が体温調節を出来なくなってきてることからおこるものらしいです。亡くなる前にはこのような発熱が起こるということです。

ずっと一緒に泊まり込んでいる伯父さんとはいろいろな話をしています。

伯父さんは母のお兄さんであり2人の娘がいます。
その長女Rさんは現在音信不通で行方もしれません。
(僕の母はたまに連絡取っていたみたいですが)

話を聞くとよくある親子喧嘩がきっかけのようです。

それから十数年おじさんは毎月、電車で2時間ほどかお墓参りに行くようになったそうです。その理由を聞くとお墓に向って
「どうか娘を返してください」と祈っているそうです。それを聞いて伯父さんの痛いほど娘を思う気持ちに泣きそうになりました。

他にもよく当たる占い師のところに行って「どこどこの神社にお参りに行けば娘さんは戻ってきます」
と言われたおじさんはそれを守っています。

Rさん、これをもし読んでいるならばどうか戻ってあげてください。
お父さんもお母さんも年老いてきました。このままでは気づいた頃には2人ともいなくなってしまいます。

伯父さんも君もお互いに悪い点があったのだと思います。もうすぐ君も40歳、そろそろ許してあげても良い頃ではないでしょうか。
2013.01.07 徒然
小さい頃から僕は体が弱くしょっちゅう風邪をひいていました。
そんな僕に母は体が強くなるようにと、積極的にスポーツをさせました。

毎週日曜日は野球チームでの練習。小学校3年生から週に3度の剣道の稽古。寒い中、僕が竹刀を振っている姿を見学している母の姿を覚えています。
そして扁桃腺が弱い僕の喉の治療に毎週片道2時間位かけて遠くの病院へ連れて行ってくれました。
母は僕のために多くの時間を費やしてくれてきました。

母は僕がやりたいと言った事を何一つ否定しませんでした。
僕が私立の高校に行きたいと言った時も、美術大学の予備校に行きたいと言い出した時も、大学生になりほとんど家に帰らなかった時も、バイクに乗りたいと言った時も、内定をもらっていた会社を蹴って高校の非常勤講師をやると言った時も、漫画を描き始めた時も、いつも「あなたが決めたことならがんばりなさい」と言ってくれました。
進路に関しては、私立であろうと決して裕福ではない家計をやりくりしてお金を工面してくれました。

僕に無償の愛を捧げてくれた人はもうすぐこの世の中にいなくなります。
それがこんなにも絶望的に寂しいことなのだと初めて知りました。
ホスピスの病室が並ぶ中央に共同のラウンジがあります。

そのラウンジにはピアノが置いてありますが普段誰かが弾いたりすることはありません。
しかし先ほどそこからきれいな音色が流れてきました。誰が弾いているのだろうとラウンジに行くとピアノを弾いていたのは初老の男性でした。
ピアノの横には女性の患者さんがおそらく意識がないであろう状態で眠っていました。

看護師さんに聞くとピアノを弾いているのは患者さんの旦那様でピアニストだそうです。そのあまりに美しい音色に普段生でピアノを聞く機会などめったにない僕は動くことができませんでした。

まもなく命を失うであろう妻にむけてのラストリサイタルは美しく切ない音色でした。
2013.01.07 回診
主治医の先生が回診にきてくれました。
先生はゆっくりと言葉を選びながらこう言いました。

「今まで僕の予想はことごとく外れています。12月の半ばだろうと言ったのも外れクリスマスあたりだろうといったのも外れました。
まぁそんな僕の言うことだから信憑性ないかもしれませんが、今日か明日、長くて数日中でしょう」

母はこの先生が大好きで、回診に来るたび「私頑張ってるでしょう」といたずらっぽく笑っていました。

こんな母のことですから今回も先生の予想を外すためもう少し長く生きてくれることでしょう。
2013.01.07 7日
1月7日月曜日。

初詣もしないまま新年1週間が経過しました。
本来なら今日から作画スタートする予定だったのですがスタッフにもお休みいただいています。
母は断続的に呻き声をあげながら昏睡しています。
38度以上の熱があるにもかかわらず、手と足が冷たくかなり血圧が低いことが伺えます。

僕はといえば母の傍で仕事をしています。
ペンの進みは結構よく、母が見えない力で僕を支えてくれてるのかもしれません。

僕は小さい頃、母の隣で絵を描くのが好きでした。
絵を描いてみせると母はいつも笑いながらほめてくれました。
母の呻き声を聞きながらそんなことを思い出し漫画を描いています。
2013.01.06 6日
1月6日日曜日、病院に泊まり込んで1週間目を迎えました。

さすがに僕も疲労が溜まっているみたいで昨日は泥のように眠りこんでいました。

今朝母は震える手でのジェスチャーで起き上がりたいと伝えてきました。困惑する看護師さんたちに手伝ってもらい、ベッドを直角に起こしてもらいました。

すると母はニコニコと笑顔になり「馬がにこっと、馬がにこっと、」と何度も繰り返し手を振ってていました。
何か楽しい夢でも見たのでしょうか?起き上がること自体久しぶりなので僕も一緒に泊まっている母のお兄さんもびっくりしました。

そして母は横になりたいと言いサイドボードの上の電子アルバムに次々と映る孫の写真をじーっと見つめ、やがて眠りにつきました。

久々に起き上がった母の姿は元気だった頃の母を思い出させてくれ、胸を締めつけられるような思いでした。
2013.01.05 生きる母
母は12月26日の日から痛み止めのモルヒネと吐き気止めの薬を断続的に投与されています。しかし水分や栄養分は何も取っていません。
このホスピスという場所が自分で水分や食事を取れなくなったときはそれを受け入れるという方針に沿ったものです。

母はその飲まず食わずの状態のまま11日間生きています。
人間の命というのはこんなにも強いものなのかと驚かさせられます。

母は最後に命の強さという強烈なメッセージを僕に残しているのだと思います。
2013.01.05 衰弱と美と
母の衰弱に向き合っているとどこが衰弱も終わりなのか、素人目にはわかりません。
もうここがギリギリだろうと思っていると次の日にはその先の衰弱へと進み、人はこんなにも痩せるものなのかと思った次の日にはまたさらに痩せていきます。
肉体から全てを削ぎ落とし芯だけを残していきます。


こんなにも細くなったのにも関わらず命の強さを感じさせます。言い方は変ですが今の母はとても美しいと思います。ジャコメッティの彫刻のような魂を震わせるような美しさがあります。

若い頃の母はとても綺麗で自慢の母でした。でも今の母は生涯で最も美しいと思うのです。
2013.01.04 4日
病院での4泊5日目、1月4日の朝を迎えました。

朝食の買い出しに街に出ると通勤の自転車や白い息を吐く小学生が沢山いて日常生活が戻ったのだと感じます。

母はずっと眠っています。
楽しい夢を見ているのか時折笑っています。

病院に長く寝泊まりしているせいで明日はこのお店に行ってみよう、そして明後日はここのお弁当食べて、などと無意識に考えてしまう自分がいます。

ですがその明日明後日が来るとは限らないのだなとふと思います。
2013.01.03 混濁状態
母は頻発に幻覚のようなことを口にするようになってきました。

「そこに猫が挟まっているから、鳴いているから助けてあげて!」

「靴が脱げちゃったから履かせて」

「花瓶が落ちてわれちゃったの、花瓶が落ちて」

モルヒネと同時に幻覚を抑える薬も入れてもらってるのですが母の意識は混濁状態となっているようです。
2013.01.03 3日
1月3日午前7時、病院での3泊4日目を迎えました。

40年間思いリュウマチと戦ってきた母の両手はぐにゃりと変形しています。

母は強い痛みを抑えるため長い間薬を服用してきました。
母はその体で父の仕事を支え、僕を育て、そして4年前癌で亡くなった父の介護をしてきました。

体の節々が変形した母の体をみると本当に今までよく頑張ってきたなと思います。

今母がふと目を覚まし
「生かされるも大変、死ぬのも大変、もういい、もういいから」と言いました。

もう死の瀬戸際にいるのになかなか死ねない自分に苛立っているようなので
「もうすぐお父さんが迎えに来るからその時まで待っていよう」と言うと母は少し納得したように眠りにつきました。
2013.01.02 新年2日
新年2日目午前9時45分。昨日の元日は命の瀬戸際である母のもとに親類一同が集まってくれました。母もひとりひとり手を握って笑顔で応じていました。病室とはいえ、仲の良い親戚が集まったのでにぎやかな冗談話も始まり元日の静かなホスピスの病棟内でこの部屋だけが宴会のようでした。ずっと眠っている母も時折笑顔になりこの懐かしくも楽しい親戚たちの集まりを楽しんでいるようでした。

昨夜もそのまま病院に泊まり朝を迎えました。父と母が毎年楽しみにしていた箱根駅伝を流しています。

毎年当たり前のように続いていた正月は少しずつ形を変えていきます。
2013.01.01 新年
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

母の病室でで新年を迎えました。母も何とか年を越してくれ、このあけましておめでとうの言葉を言うことができました。
心なしか母も少し元気が出てきているように見えます。今日は話すこともでき僕の体調を気遣う余裕もあります。このまま1日でも長く生きててくれたら嬉しいと思います。
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